1903年6月16日、ヘンリー・フォードは11人の投資家とともに、2万8千ドルの資金でフォード・モーター・カンパニーを創設した。
自社が新しく設計した車の性能を見せるため、フォードはセント・クレア湖の氷上1マイルを走り、39.4秒(91.37 mph=147.05 km/h)の記録を出し、自動車速度の世界新記録を樹立した。
フォードはまた、自動車レースインディ500の最初期の後援者ともなった。
ヘンリー・フォードの時代のフォード社製品としては、T型フォード(Model T)およびA型フォード(Model A)が知られている。T型フォードは1908年に発表され、1909年から1913年にかけて、フォードは宣伝のため盛んにT型フォードを自動車レースに出場させた。1913年にはT型は十分に有名になり、全米に行き渡り、宣伝のためのレース出場は必要なくなった。1918年までに、アメリカで保有される自動車の半分はT型フォードとなっていた。
フォードは労働者に対して独特な考えをもっており、当時としては珍しかった、8時間労働や一日あたり5ドルの賃金という厚遇を与えた。その目的は労働の質を高め、生産計画の都合で一時帰休などが生じても熟練した労働者が他に移らないようにするためである。T型フォード生産の最盛期には賃金は一日あたり6ドルとなった。
またさらに投資により社の利益を共有する計画なども提供された。一方でフォードは労働組合には強硬に反対し、組合結成を防ぐために専門家を雇ったりもした。1941年全米自動車労働者組合は、フォードの組合政策に抗議する座り込みストライキが行われた。フォードは部分的には妥協したが、フォード社における組合の完全な結成は、フォードが退社した1945年まで行われなかった。
1919年ヘンリー・フォードはフォード社社長の職を息子のエドセルに譲ったが、依然経営にかかわり続けた。
1920年代にフォードは、ブラジルにフォードランディア(Fordlandia)と呼ばれる広大な土地を買い付けた。これはフォード社の車にゴムタイヤを安定供給するためであった。しかしこの投資は失敗し、フォードはこの土地を1945年に売却した。
1920年代半ばにはT型フォードの売り上げは落ち込み始めた。息子の助言にもかかわらず、フォードはT型フォードのデザインを変更することには強く反対した。しかしこの時代にはT型フォードはいわば時代遅れとなっており、新しいデザインの車が求められたのである。
また他社がクレジットによる自動車購入プランを提供したのに対し、フォード社はクレジット販売をしなかった。エドセルはクレジットの導入を勧めたが、ヘンリー・フォードはこれにも反対した。これはそのような仕組みは経済に悪影響を与えるとの考えからであった。